東日本大震災から8年が経過しました。毎年、あの日の晩に自分の親と音信不通状態になり、まんじりともせず一晩を過ごしたことを思い出します。
仙台には、2007年の年末から、2013年の年始まで、毎年1~2回の往復をしていたこともあり、その時に撮影した写真が複数手元に残っています。その写真を見返すと、偶然にも災害の前後を記録した写真にもなってしまっていました。
今回は、震災の前後の仙台空港の写真をご紹介することで、東日本大震災の津波の被害がどれくらいのものだったのか、ということを検証してみたいと思います。
2010年9月6日に撮影した写真です。アントノフ124がRW27に進入している所を撮影していますが、アントノフの奥には、防風林が茂っており、その向こう側に海を見渡すことができます。
震災の年の年末、2011年12月31日に撮影した写真ではこのようになっていました。
防風林も、周辺にあった家々も、そして川にかかっていた橋や進入灯までもが、すべて津波で流されてしまっています。防風林はかろうじて何本か残っているのが分かりますが、ほとんどの木は枯れかかっている状態です。海を見渡せる、と言うよりは、海まですべて見えるほど、情景が一変しています。
津波の威力がどれほどすごかったのか、と言うことを物語っていると思います。
同じく2010年9月6日の写真。
震災の年の大晦日の写真。
全く同じ位置ではありませんが、こちらも情景は一変してしまっています。
現在は周辺に建設資材の集積場のようなものが出来ていますが、アシアナのB767の背景に写っていた家々はなくなってしまっていることが分かります。
仙台空港ターミナルビルには、津波がターミナルの1階到着ロビーの天井付近まで達したことを示すサインも残されています。
震災、津波の後、米軍と自衛隊の力により、仙台空港は1カ月で滑走路を使えるようになり、フライトの発着が再開されるようになりました。私自身、震災の2カ月後に仙台に両親の様子を見に行きましたが、その時は伊丹~仙台便が確保しづらい状態だったので、伊丹~山形便を使って、山形から仙台入りしており、5月の仙台空港周辺は見ていません。それでも、8年前の今日のこと、そしてその後起きた数々のこと、仙台空港の展望デッキから見た風景が一変してしまったこと、どれも死ぬまで忘れることはないと思っています。
最後になりましたが、この震災・津波で亡くなられたすべての方の、ご冥福をお祈りして、この記事を終わらせて頂きたいと思います。合掌。