1972年のホノルル行き

先日実家に戻ったところ、両親が「こんなのが出てきた」と言って、いろいろな紙の入った袋を渡してくれました。何かと思って開いてみると、二人の新婚旅行の旅程表と、航空券などの物品一式でした。もちろん無くなっているものも多数あるのですが、非常に面白い資料なので、こちらで少しご紹介してみたいと思います。

こちらがその旅程表。1972年(昭和47年)の2月9~15日の7日間コースだったようです。まだこの頃は海外旅行は高根の花、一生に一度とすら言われていた頃でした。
旅程表はJALPAKのもので、表紙に747が載っていることから、当時JALのフラッグシップが747だったかのように見えますが、1972年2月時点のJALのフリートに居た747はわずかに8機。後に100機を超える747を運航する「序章」に過ぎませんでした。

日程表には当時の羽田空港国際線の見取り図が掲載されています。成田が開港する前ですから、すべての東京発着の国際線が羽田発着だった頃です。JALのチェックインカウンターが真ん中ではなく、端にあるのも意外です。
ざっと見る限りは、今よりもずっとコンパクトな国際線ターミナルと言えそうです。私もこのターミナルは利用経験がありません。位置的には今の第3ターミナルの位置に、全ターミナルが集約されていたと記憶しています。

日程表を見ると、JL72便に乗っていることが分かります。「日航ジャンボで常夏の島ハワイへ」の記載があり、ホノルル線は比較的早くから747が投入されていたことが窺えます。
この日程表を見ると、3日目にハワイ島へ、その後カウアイ島を経て、最後にまたホノルルに戻って、ホノルルからJL71便で帰国、と言うスケジュールになっていました。

さて、当時のJALの747は、どうも3-4-2の9アブレストで運航されており、当時のブラニフやTWA、パンナムと言った航空会社も9アブレストだったようで、その後標準となる3-4-3の10アブレストで運航する航空会社の方が少なかったようです。
もう一つは、色々なボーダーを通過する記念証を発行していたようです。ホノルル線を含めた北米路線の場合は日付変更線通過記念証を発行していたようですし、他に北極点通過記念証なんてのもヨーロッパ路線では発行していたようです。
この記念証、なぜか赤道については発行していなかったようですが、JALのシドニー就航が1969年、他に赤道を超える路線はジャカルタ程度でしたから、サービスをしていなかったのだと思います。どちらかと言うと1950年代、60年代のサービスで、70年代はその最晩年だったとも言えそうです。

搭乗券は残っていないとのことでしたが、航空券は二人分残っていました。離島行きのハワイアンのチケットは表紙が青で、国際線のJALのチケットは表紙が赤の、IATA標準の航空券でした。
JALPAKですが、航空券は近畿日本ツーリストが発行したことが分かります。

航空券にはバゲッジクレームタグがステープラーで止められていました。今のように自動に感熱紙に印刷するタイプではなく、すでに印刷してあったものを使用する昔ながらのスタイルだったようです。
私自身の経験では、臨時の物でない手書きのバゲッジタグはこの10年以上見ていませんが、意外にこのシステムは晩年まで残っていたようです。

と言うことで50年近く前のJALの羽田-ホノルルの残っていたものを集めてみました。1970年代のJALについては、手持ちのいろいろなアイテムがあるので、また機会を改めてご紹介してみたいと思います。

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