と書いて、何のことかわかる人は同世代の方かそれ以上かもしれない。
愛知県の豊橋から長野県の辰野までを結んでいるローカル線が飯田線なのだが、最近は「全線乗り通すと6時間」というトピックが話題になるものの、車両はすでにステンレス車体の今時の電車になってしまっており、もちろんエアコンもついているので、夏場に乗っても苦痛はない。6時間の移動を風光明媚な伊那の山々や天竜川に沿って走って行くので、6時間もあっという間というコメントをよく聞く。
愛知県で生まれ育った私にとって、飯田線は時に祖父が連れて行ってくれる「ちょっとしたお出かけ先」だった。母方の祖父は、孫が喜ぶなら、と思ったのか、よく電車に乗って行くお出かけに連れて行ってくれた。その行先は様々で、途中から私に時刻表を渡し、行きたいところへの時刻を自分で調べるように、と仕向けてくれた。その結果が現在の私だが、その後鉄道から飛行機へ、国内から海外へとシフトしていくのだが、当時はそんなことは思ってもみなかった。
さて、祖父と飯田線には何度か乗りに行ったのだが、はっきり覚えているのは、なぜか夕方から出かけた1回である。小学校に入る前の年だったと思う。当時、東海道本線を走る快速列車は、153系や165系で編成されており、豊橋から先飯田線に入って、飯田線内は急行「伊那」になる編成が連結されていた。確か豊橋までの編成が8両、飯田線に行く編成が4両の合計12両だったと記憶している。この頃は153系の非冷房車も残っており、快速の編成には非冷房車が連結されていることも多かった。「伊那」の編成は基本的に165系の冷房車だった。
その急行「伊那」の編成に乗り、豊橋からそのまま飯田線を北上する、というコースだった。そして、湯谷駅で降りて、そこでしばらく待った後、普通列車で南下して豊橋に戻る、というものだった。急行は165系で、その後何年も乗ることができたので、あまり記憶にないのだが、帰りに乗った普通列車は今も覚えている。
いわゆる旧型国電と呼ばれる車両で、クハユニ56という形式を覚えている。車内のシート回りはニス塗の木製、モケットは青だった。今ならモーターの付いた車両に乗って釣りかけ音を楽しむ、なんてことをしただろうけれど、当時は祖父に連れられており、合造車が珍しくてそちらに乗せてもらったようだ。
確かこのお出かけの少し後に、関西流電のクモハ52が引退した、というニュースがあったので、1978年だったと思う。祖父がその時撮影した写真にクモハ52の写真が1枚入っていた。
その後何度か飯田線には連れて行ってもらったのだが、その時の写真の1枚が手元に残っており、東栄駅で行き違いをした時に、向かいのホームの旧型国電に祖父がシャッターを切ったと思しきものが残っていた。1979年4月1日とあり、スキャンして拡大すると、手前の車両は背もたれの枠が木製、奥の車両はクハ68408と読める。いろいろ調べてみると、クモハ54117-クハ68408-(2両)の4両編成だったことが推測できる。クハ68と連結している車両は2ドアっぽいので、クモハ51かクモハ53あたりだろうか。
当時の国鉄は相当の財政難だったようで、車齢が高くなった車両の更新ができず、幹線に新型車両を入れてローカル線に旧型車両を放出する、ということをやっていたらしい。現在の飯田線も、本線で使い古された車両が入ってくるのは同じだが、さすがに車齢40年を超えた車両は走っていない。
昭和40年代に全国で使い古された旧型車両が飯田線に入線することになるのだが、その時点で、ドアの増設改造やら先頭車化改造やらされていて、その改造が各地の鉄道管理局に任されていたので、形態も様々だったらしい。戦前に作られた車両も多く、戦災や戦後の混乱期を乗り越えて、飯田線で余生を送っていた訳で、すでに車齢が40年を超えていたのだから、相当の老朽車だった訳だ。写真を通して様々な形態を見るにつけ、生まれる時代を間違えたな、と思うこともある。
飯田線の旧型国電は、それから5年経った1983年に引退し、その後継として導入された119系も、2012年に引退したと聞いた。祖父も一昨年97歳で鬼籍に入り、飯田線の思い出も遠い彼方に去って行った。
しばらくしてから、鉄道模型として旧型国電シリーズが発売されていることを知った。当初はクモハ53などを購入し、かなり経ってから先日オークションでクモハ52の編成を購入した。こうした車両を眺めて、幼少期に思い出に浸るようになってきた時点で、私も十分をやぢになった、ということだろうか。