ハワイで日本語は通じるか

おそらく日本人の渡航先として人気の高い場所を聞けば、トップ3に入るであろうハワイ。れっきとしたアメリカ合衆国の50番目の州なのだが、よくハワイは日本語が通じるから海外旅行先としてイマイチだ、という話を聞いた。

そういう先入観があったので、ハワイに行ったのはつい2年ほど前のことになるのだが、はっきり言って日本語よりも英語をしゃべっていた方が長かった。かんたんに言えば、「そこまで日本語は通じない」というのが正しい。

カラカウア通りの観光客相手の店や、おみやげ物を売っている店なら、日本語は通じるかもしれないが、正直レストランは英語オンリーだったし、他の所でも、私自身が英語を使うせいか、相手は英語を返して来た。もちろん、日本語の表示はあちこちで見かけたが、むしろ日本語の表示と、観光客が発する日本語以外の日本語はあまり見なかったし聞かなかった。
結果、私はハワイでは、日本語が通じるのは限定的である、と判断した。英語で話す方が圧倒的に意思疎通ができる、ということだ。

一方で、日本語で話しかけてくる人たちも居る。いわゆるリゾート会員権を売りたい方々である。某大手ホテルチェーンのものが有名だが、説明会に参加すれば金券がもらえる、というものが多い。だいたい50ドル相当になるだろうか。滞在中の2-3時間のアルバイト、と考えれば割が良いのだが、そういうのが煩わしい、という方には、日本語で話しかけてくる人間には、何かそういう下心がある、と思わなければいけないだろう。

だるま引退

かつて京浜急行沿線に住んでいたので、京急の電車には思い入れがある。私が住んでいた当時は、快速特急は線内運用は2100形、都営線直通は1500形か600形、普通運用は旧1000形 、700形、800形が担っていることが多かった。朝晩には2000形の3扉車が特急で走っていた。もちろん、1500形が普通で走ったりすることもあったし、今と同じように都営や京成、北総の車両も入線していたので、当時からバラエティには富んでいた。

私が沿線を離れ、気が付いたら関西で生活するようになり、当地で家庭を持つようになって、すでに18年が経過していた。その間に、2100形が歌わなくなっていたり、600形がロングシートに改造されていたり、エアポート急行の新逗子行き、なんてのができたりしていたのだが、一方で旧1000形と700形は引退して姿を消している。

縁あってここ数年、仕事で京急沿線に出向くことが多かったので、羽田からエアポート急行で横浜方面に向かう時に、2000形がやってきて、京急川崎で普通車に乗り換えると800形が待っている、というパターンが多かった。ところがこの1-2年、2000形の列車が新1000形に置き換えられており、気が付いたら昨年3月に引退してしまっていたらしい。

一方で、「だるま」のニックネームがあった800形は、京急川崎で待っている普通車として運用されていることが多かったのだが、やはりこちらも最近は新1000形が待っていることが増えた。そして昨日、京急から800形が6月中旬を以て引退する、とのことが発表されたそうだ。

私の年齢になると、自分が子供の頃にデビューした電車が、今や老朽車になって引退していくところを目撃する機会が増えた。関東の私鉄の車両にしては結構長生きをした800形だが、最後にもう一度くらい乗れることを期待したい。

ベルリンの政治犯刑務所博物館

現在のドイツは、ドイツ連邦共和国という民主主義の国になっており、正直旅人として訪れるには非常に優しい国の一つであると思う。あらゆることがシステム化されている部分を見ると、やはりドイツの国民性ということを感じる。

ドイツはご存知の通り、1990年までは東西に分断された国家であり、ドイツ連邦共和国は「西ドイツ」、ドイツ民主共和国は「東ドイツ」と呼ばれていた。1990年に消滅したのは東ドイツで、ドイツ「民主」共和国とは名ばかりの、恐怖政治の共産主義独裁国家であった。

当時の東ドイツでは、市民による市民の監視が行われており、秘密警察シュタージという組織が存在していた。市民は別の市民をシュタージに密告し、その取り調べを行う、ということが日常茶飯事だったようだ。時には家族でさえ密告の対象だった、という。現代のドイツのシステム化を良い事例とすれば、悪い方向にシステム化された事例が、ナチスであり、東ドイツであると私は思っている。

シュタージは、当時密告があると、その当事者を取り調べている。取り調べは専用の施設が用意されており、そこで精神的に追い詰め、告白させるという手法が取られていたようだ。その様子は、映画「善き人のためのソナタ」に詳しく描かれている。

その映画のロケが行われたのが、ホーエンシェーンハウゼンの刑務所跡である。「跡」と言っても、博物館になっており、当時のままの建物と内装が残されている。内部の見学は見学ツアーのみ、基本的に30分のムービーと90分の内部見学、となっているらしい。

私が行ったのは今から12年前の2007年。内部は普通の建物なのだが、やはり何か違った空気感があり、ベルリンの市内にあるとは言え、不思議な感じがした。ここで数多くの、密告を受けた、罪のない人達が裁かれたかと思うとぞっとする。共産主義の遺構を見て回るのが好きな私だが、ここだけはこの一度の訪問以降行っていない。行きたくない、とでも言うべきか。

ロシアのイメージ

私が行ったことがある国で、「おすすめの国」を聞かれることがある。まあ、皆さんの期待は「アメリカ」とか「オーストラリア」とかなのだろうが、私自身の回答は「ロシア」や「イラン」なので、正直びっくりされることが多い。

もちろん海外にあまり行ったことがない方向けであれば、香港とかハワイとかニューヨークとかロンドンとか答えるのだが、それなりに行ったことがある人向けだと、ロシア、ドイツ、イランあたりを推している。
ドイツとイランは別の機会に話を書くとして、今回はロシアについての話を書いてみたい。

おそらく一般にロシアのイメージ=暗い、寒い、怖いではなかろうか。この中で、おそらく「寒い」は事実なので置いておくとして、「暗い」と「怖い」は、ソビエト時代の名残なのかな、とも思う。

何も意識せずにモスクワ行きの飛行機に日本から乗り、モスクワの空港に着いてみると、おそらくその空港の明るさに驚くかもしれない。ソ連崩壊から数年後のモスクワの空港は、薄暗く、汚く、とても一国の首都の空港とは思えなかったのだが、10年ほど前に再訪すると、新しい建物に建て替えられており、明るくきれいなターミナルビルになっていた。
モスクワの地下鉄もソ連崩壊直後に行ったときは、切符の買い方すらよく分からず、ロシア語表記のみで全然分からなかったのだが、10年ほど前の再訪では、普通に切符を買うことができ、ICチップの入った乗車券で改札をICで通るようになっていた。やはりこちらもソ連崩壊直後は薄暗かったが、10年前には暗さを感じなかった。
モスクワの街を歩いても、やはりソ連崩壊直後と10年前ではずいぶんと雰囲気が違っており、現代のモスクワにおいて、私は暗さを全く感じなかった。サンクトペテルブルグに至っては、他のヨーロッパの街と雰囲気は変わらないほどだ。

もう一つ、「怖い」だが、確かに日本の常識では計り知れないことが発生するのは事実かもしれない。ただ、強面の大統領が発する強い言葉と、時折ニュースになる軍事的な話は、ロシアを普通に旅行者として旅をする限りは無縁であろう。モスクワの街を歩いていて、いきなり逮捕される、拘束される、ということはまずない。ソ連時代であっても、軍事基地で撮影しているとかでなければ、逮捕、拘束にはならなかったので、そのあたりはスターリン時代のソ連のイメージではなかろうか。
ロシアでは日本では想像できないトラブルが発生することはある。そもそもの文化も違えば、習慣も違うのだから仕方がないのだが、トラブルが発生したと言って、自分の身に危険が及ぶケースはほとんどない。少し嫌な思いはするかもしれないが、そのうち慣れてしまうと、「ロシアだから仕方がない」となってくる。
また、テレビに映る大統領の顔を見て、ロシア人は笑わない、怖い、というイメージがついているのだが、これも文化の違いであろう。ロシア人は微笑みを誰にでも向けるのは、頭の悪い人間のすることだ、と思っている。つまり、日本の感覚でニコニコしていたら、「こいつはアホじゃないのか」と思われてしまうのだ。
笑わないからと言って、ロシア人が怖い訳ではない。むしろトラブルが発生した時に、ロシア人たちは親身になって助けてくれることが多い。困っていて話しかけられるケースも多く、正直大統領の強面の印象はそこで薄れてしまう。
唯一困ること、と言えば、日本語でもなく英語でもなくロシア語で話しかけられること。まあ、こればかりはヨーロッパや一部の東南アジア以外では稀で、だいたい現地語であることが多い。

世界一の国土面積の割に、人口は日本より少し多いくらい。人口密度などを考えれば、私たちのような島国で生活している人々との感覚は相違してしまうのは仕方がないのだが、少なくともアンチの方々が思っているほど、ロシアは悪い国ではない。その証拠に、私が「ロシア良いよ」と言って実際に行った方は、ほぼ100%が「良かった、また行きたい」と言って帰ってきている。アンチの方にこそ、ロシアに1週間くらい滞在してもらいたいものだと思う。

はじめてのかいがいりょこう

タイトルを平仮名にしたのは、息子にとっての初めての海外旅行だから。
昨年夏に飛行機に乗せることに成功し、息子を連れてどこかに行く、ということに抵抗がなくなったからか、嫁様から「アジア域内の海外で美味しいものを食べに行きたい」と要望があった。私の頭の中に浮かんだのは香港だったが、嫁様に「飛行時間が長い」と却下された。確かに冬場の西行きフライトは偏西風の影響で、飛行時間が若干長くなる。大阪~香港が過去の履歴を見ると4時間程度かかっており、那覇までの2時間ちょっとと比較すると倍かかることになる。
それならば、ということで昨年末に台湾に行くことにした。昨年秋からフライトスケジュールが日本人向けでなくなってしまったキャセイパシフィック航空の大阪~台北~香港便の大阪~台北区間だけを使うことにし、2時間だからエコノミーでいいや、ということでエコノミークラスの航空券を格安で購入した。

さて、台北まで3時間ほどで到着し、子連れということであらゆるところで優先レーンを通してもらうことができた。これ、実は日本でもやっているのだが、あまり知られていないようだ。通関まで30分ほどで済み、その後空港から台北市内のホテルへは送迎車を利用した。値段は張るが子連れには便利で、到着から1時間半後にはホテルにチェックインしていたので、非常にスムーズだったと言える。

台北市内では観光はほとんどせず、子供を連れてあちこちうろうろしつつ、買い物をしつつ、美味しい食事を楽しみつつ過ごした。1歳だから何も分からない、覚えていない、ということは確かだが、そんな息子でも、あちこちキョロキョロして興味を示し、普段と違う空気感を実感していたようで、結構疲れていたらしい。ホテルに帰ってくるとほっとした表情を見せ、お風呂に入れるとすぐに寝てしまい、その後いつもなら数時間おきに目が覚めるのだが、ほとんど起きることなく眠っているようだった。

こうした幼少期の体験は、ほとんど覚えていないとは言われるのだが、一方で少なからずその後の教育にある程度の影響が出てくると思っているので、無駄にはならないと思っているし、飛行機に乗る距離も、少しずつ伸ばして行こうと考えている。

ベルリンの旧東ドイツ時代のアパートホテル

私自身ドイツは好きな国で、1991年に初めて訪問してから、すでに10回は行っている。正直、ドイツについては飛行機趣味よりも旅行趣味がメインになり、旧共産圏の遺構が関係すると、そこに必ずと言っていいほど行くことになる。
2011年の訪問で、タイトルのホテルに泊まることができた。

旧東ベルリン側に、アパートを改造したホテルがある、と聞いたのは、2008年頃だっただろうか。部屋が広いが、一方で共産圏時代の殺風景な部屋が特徴的、と言われて、泊まってみたくなった。旧東ドイツの生活の一片については、映画「グッバイ!レーニン」で描かれているが、そこに出てくるアパートと同じような部屋に宿泊できる、ということになる訳だ。

ただ、私の場合はタイミングの悪いことに、新婚旅行でベルリンに行く、という禁忌をしてしまった。嫁は共産主義の遺構にはあまり興味はなく、ホテルは1泊だけだったのだが、かなり評判が悪かった。尤も、印象は強かったらしく、後日ベルリンの東ドイツ風のホテル、ということでニュースが出てきたときに、「あの時のホテルってこれだっけ?」と聞かれた(違うホテルだったが)。

宿泊したホテルは、その後改装されてしまい、現在は普通のホテルの内装になってしまったらしい。ベルリンの壁が崩壊して今年(2019年)で30年、ドイツが統一して29年である。そういう意味では、2011年にこんなスタイルのホテルに宿泊できた、ということが奇跡的だったのかもしれない。

ベルリンのボロボロのS-Bahn

古い電車ネタからそのまま継続するネタになるのだが、ドイツの首都ベルリンにも、古い電車が走っていた。ドイツの主要都市には、S-Bahn(Schnell Bahnの略)と呼ばれる通勤電車が走っており、空港アクセス鉄道を兼ねていたり、市内の移動手段であったりする。ベルリンにもS-Bahnが走っているのだが、他の都市のS-Bahnと違い、第三軌条方式で、地下鉄のような雰囲気である。

今でこそ新しい電車が走っているが、1995年に初めてベルリンに行ったときは、戦前に作られた古い電車が、未だ東ドイツの雰囲気の残る駅を発着していた。ほとんどの電車が古い車両で運転されており、調べてみると大半が戦前の製造。車齢は50年から60年とのことであった。
旧西ドイツでは、S-Bahnの車両は1980年代から90年代に作られた新しい車両で運転されていた。他方、ベルリンの場合は、S-Bahn自体が東側の運用だったということもあるのだが、車両の更新が遅れており、1990年代でも戦前型の車両がつりかけモーターの音を響かせて走っていたのである。そして、木製シートの車両も走っており、大都会ベルリンも、まだまだ東西分断が色濃く残っていた時代でもあった。

さすがに2002年に訪問した時には、古いS-Bahnは一部を残して姿を消し、新しい車両が主体になっていた。結局私自身が最後に乗ったのも、この2002年の訪問時であったと記憶している。

現代のベルリンのS-Bahnは、すでに新型車両に置き換えられてしまっているのだが、1編成だけパノラマS-Bahnと呼ばれる列車用に改造された編成が生き残っているらしい。なかなかベルリンに行く機会には恵まれないが、東西分断の痕跡はずいぶんと薄れつつあるようだ。

古い電車の話のそのまた続き

そして名鉄のモ510の話を書いたところで、ふともっと古い車両が関西で生き残っていることを思い出した。2009年だからもう10年前になるが、私の旧知の友人が病のためにこの世を去った。闘病中に「回復したら阪堺電車のモ161を借り切って宴会をしよう」という話をしていたのだが、叶わぬまま旅立ってしまった。

翌2010年、その彼の追悼のために有志が集まり、阪堺電車でモ161を借り切ったのであった。この時に乗ったのがこの車両。モ172、昭和5年製造(阪堺線入線は6年)なので、この時ですでに車齢80歳。モ510もびっくりである。2010年当時は結構な数がまだ走っていたのだが、その後廃車が進行し、現在は4両が残るのみになっている。私が乗ったモ172も廃車になり、現在は大阪市内の保育園で余生を送っているそうだ。

現役で残っている車両のうち、一番古い車両はモ162で、昭和3年(1928年)製造の御年91歳。動態保存されている車両を除けば日本で最も古い電車だそうで、初詣輸送などの時には、残った4両がすべて動員されることもあるらしい。
阪堺電車がいつまでモ161を運用してくれるかわからないが、やはり100歳まで頑張って欲しいと思うのは私だけではあるまい。

大正生まれの丸窓電車

阪急の車齢50歳よりもそういえばもっと長年走っていた電車があることを思い出した。飯田線と同じくらいの思い出のある電車でもあった、

私の祖父は岐阜の出身で、戦後祖母と結婚するにあたって愛知県にやってきたので、おそらく祖父の人生の2/3くらいは愛知県で過ごしていたはずである。
その祖父は、墓参りや親戚の家に行く用事でよく岐阜に行っており、私も何度となく岐阜に連れて行ってもらった。祖父の実家は、名鉄谷汲線の黒野駅に近かったようで、当時は国鉄だった東海道本線に名古屋まで乗り、なぜか名鉄に乗り換えて新岐阜、そしてそこから岐阜市内線~谷汲線というルートが多かったことを覚えている。当時の国鉄岐阜駅に降りた記憶はなく、大学生になって岐阜に通うようになり、毎日JR岐阜駅に降り立つようになっている。

正直東海道本線は153系/165系か113系で、名鉄もパノラマカー7000系か5500系あたりが多かった記憶があるが、何に乗ったかは覚えていない。逆にはっきり覚えているのは谷汲線直通運用に入っていたモ510/520であった。ちょうどスカーレット1色への塗り替え過渡期だったので、赤白ツートンの車両もまだ走っていた。転換クロスシートが並び、急行運用に入っていたのだが、まさか大正時代に製造された車両だとは思ってもおらず、丸みを帯びた車体と塗装が子供心に記憶に残っていたので間違いないと思う。祖父に乗せられた記憶があるのはモ520の方で、確か522だったか523だったと思う。いずれもすでに現存しない。

人生とはよく分からないもので、私自身はそれから10年以上を経て、青春期を岐阜で過ごすことになった。その時はすでにモ510/520は、基本的には引退していたのだが、予備車として残ったモ510の3両が21世紀に入る頃まで走っていたので、時折岐阜市内線を走っているところを目撃した。当時は鉄道からはほぼ足を洗っていて、飛行機にしか興味を示していなかったので、そういう意味では本当にもったいないことをしたと思ってしまう。

その後、谷汲線も廃止になり、2005年に岐阜市内線を含めた600V区間が全線廃止になり、モ510は引退した。ただ、最後まで残った3両は、静態保存ながら岐阜県内に残っており、いつか訪れてみたいと思っている。
1926年に製造された電車が引退したのが2005年、つまり79年間も岐阜で活躍したのであった。飯田線の旧型国電も、阪急3000系も真っ青な、「長生き」な事例であった。

そして、写真の通り、モ510も我が家にやってくるオチがつくのであった。

阪急伊丹線の旧型電車

と書いたら怒られそうだが、よく利用する阪急伊丹線にも、かつての飯田線顔負けの旧型車両、3000系が走っている。つい先日まで、神戸線の特急列車で走っていたかと思っていたのだが、いつの間にか廃車が進行し、気が付いたら伊丹線に残る4両編成2本だけになってしまった。そして、先日もう1本が廃車になったらしく、ついに阪急線内では4両を残すのみ、だそうだ。

現在残っている編成は、1964年製造が2両と1965年製造が2両。共に製造から50年以上が経過した老朽車である。先日の記事の飯田線の旧型国電が昭和10年代に製造されて昭和58年に引退しているので、50年は使用されていないのだが、まさか関西を代表する私鉄で、車齢50年越えが走っている、というのはちょっとびっくり、であった。

ちなみに関西の私鉄は車両を大事に使用するらしく、南海や京阪などでも古い電車が元気に走っているらしい。飯田線の旧型国電も当時「40年越え」が話題になったが、まさか50年も線路上を現役で走るなんて、電車としては本望なのかもしれない。