寝台車

食堂車の話を書いたついでなので、寝台車の話も書いてしまおう。
私が最後に乗った寝台車は、日本では急行「きたぐに」の新潟-大阪間であった。電車三段式の開放寝台車で、正直時代錯誤の寝台列車ではあったのだが、電車三段式に一度も乗ったことがなかったので、両親が仙台に住んでいるうちに、と思って、仙台から新潟を経由して大阪まで、583系のパンタグラフ下の中段という、かなりマニアックな寝台で一晩を過ごした。

寝台車の寝台料金は、電車三段式で上段と中段は5250円で下段が6180円だったと思うのだが、これに運賃と急行料金が加算されるので、新潟~大阪間の合計は結構な金額になった。しかし、一晩ぐっすりと、まではいかないにしても、夜行バスの座席に座るよりかは身体の負担は少なく、翌日も朝から普通に活動できている。

現在、日本国内で寝台車を利用できるのは、高価なクルーズトレインを除けばサンライズ出雲・瀬戸のみになっている。この電車もすでに登場から20年が経過しており、おそらく現在車両を保有しているJR西日本と東海のうち、東海はもう次の車両は作りたくないであろうから、車両の老朽化と同時に廃止される公算が高い。

しかし、寝台列車を含め、まだ需要はあるのではないだろうか。高速バスがあれだけ盛況なのに、JRは夜行列車をどんどん縮小してしまっている。私も夜の時間に移動してしまうことを選択しない訳ではないが、やはり現在の高速バス主体の夜間移動はあまり想定しない。

一方で、寝台列車がまだまだ走っている国も存在する。中国、ロシアなどがその代表だろうか。急行「きたぐに」の後で、ロシアの寝台車に乗る機会があった。前回記事の食堂車を利用したウラジオストク~ハバロフスクのオケアン号である。1等2人用個室を使ったので、非常に豪華な移動になったのだが、この寝台車は実によく眠ることができ、快適であった。こういう列車があれば、私自身の移動に組み込むことも考えられる。

さすがにウラジオストクからモスクワまでの5泊6日のロシア号の旅は苦痛かもしれないが、寝台車という選択肢は、日本の鉄道においても、まだ残しておいて欲しいものである。いや、もっと拡大することはできないだろうか。

食堂車

高校時代は親元を離れており、長期の休みになると新幹線を利用して帰省していた。当時の新幹線は、博多行きのJR東海の車両が使用される一部のひかり号のみ100系で、あとは全列車0系であった。その後、JR西日本がグランドひかりを投入するようになって、100系を使用する列車は増えたが、いずれにせよ0系に乗ることが多かった。

当時の0系は食堂車のついたひかり編成が16両、食堂車のないこだま編成が12両だったと記憶している。こだまは利用者が少ないので12両に減車になったり、指定席が2&2シートになったりしていて、当時はまだ利用者を増やす努力がなされていたと思う。

私がよく乗っていたのは0系ひかりで、8号車に食堂車が連結されていた。当時の食堂車は日本食堂、都ホテル、帝国ホテルの3社が営業していて、一部のひかり号はそば・うどんしかサービスしない、という列車もあった。
なぜか私がよく使う時間帯の列車は、そのそば・うどんの列車であり、いつ乗ってもそれ以外のメニューが食べられないのであった。
値段がどれくらいであったか忘れてしまったが、1500円も出せば食事ができた訳なので、すこぶる高い金額ではなかったと思う。

食堂車は、0系の置き換え用に製造された100系から、「カフェテリア」と呼ばれる売店に変わり、「のぞみ」が登場すると、カフェテリアすらなくなってしまった。今や車内販売すらない列車も増えており、JRの供食サービスは低下するばかりである。乗る前にコンビニや売店で買ってくれ、ということなのだろうが、日本の鉄道は旅情というものがなくなってしまったと思う。

以前はヨーロッパの特急列車に乗ればほぼ必ずと言っていいほど連結されていた食堂車も、ここ最近はビュッフェ程度に縮小されたり、日本と同じように連結されなくなってきているらしい。世界的に食堂車は縮小傾向と言えるのだが、まだ食堂車が比較的連結されている国がある。

10年ほど前、ロシアでシベリア鉄道に一晩だけ乗る機会があった。本来ならロシア号のウラジオストク~モスクワに乗るべきなのだが、私が乗ったのはオケアン号という、ウラジオストクからハバロフスクまで一晩で走る列車であった。
こんな一晩しか走らない列車でも、ロシア国鉄はきちんと食堂車を連結し、営業していた。ロシアでも値段が高い食堂車を使う人は年々減少しており、やはり乗る前に食べ物を買ったり、長時間停車する駅で調達したりするらしい。

食堂車というサービスはだんだん縮小されてきているのが現状だが、一方で最近は風景を楽しみながら食事を楽しむという列車がJRを中心に運行されているらしい。食堂車扱いになっている列車もあると聞くが、もう少し定期列車の食堂車について、復活させることをJRは検討するべきところに来ているのではないかと思う。尤も、そんな長時間の列車に乗る機会は、もはやないのかもしれないが。

だるま引退

かつて京浜急行沿線に住んでいたので、京急の電車には思い入れがある。私が住んでいた当時は、快速特急は線内運用は2100形、都営線直通は1500形か600形、普通運用は旧1000形 、700形、800形が担っていることが多かった。朝晩には2000形の3扉車が特急で走っていた。もちろん、1500形が普通で走ったりすることもあったし、今と同じように都営や京成、北総の車両も入線していたので、当時からバラエティには富んでいた。

私が沿線を離れ、気が付いたら関西で生活するようになり、当地で家庭を持つようになって、すでに18年が経過していた。その間に、2100形が歌わなくなっていたり、600形がロングシートに改造されていたり、エアポート急行の新逗子行き、なんてのができたりしていたのだが、一方で旧1000形と700形は引退して姿を消している。

縁あってここ数年、仕事で京急沿線に出向くことが多かったので、羽田からエアポート急行で横浜方面に向かう時に、2000形がやってきて、京急川崎で普通車に乗り換えると800形が待っている、というパターンが多かった。ところがこの1-2年、2000形の列車が新1000形に置き換えられており、気が付いたら昨年3月に引退してしまっていたらしい。

一方で、「だるま」のニックネームがあった800形は、京急川崎で待っている普通車として運用されていることが多かったのだが、やはりこちらも最近は新1000形が待っていることが増えた。そして昨日、京急から800形が6月中旬を以て引退する、とのことが発表されたそうだ。

私の年齢になると、自分が子供の頃にデビューした電車が、今や老朽車になって引退していくところを目撃する機会が増えた。関東の私鉄の車両にしては結構長生きをした800形だが、最後にもう一度くらい乗れることを期待したい。

ベルリンのボロボロのS-Bahn

古い電車ネタからそのまま継続するネタになるのだが、ドイツの首都ベルリンにも、古い電車が走っていた。ドイツの主要都市には、S-Bahn(Schnell Bahnの略)と呼ばれる通勤電車が走っており、空港アクセス鉄道を兼ねていたり、市内の移動手段であったりする。ベルリンにもS-Bahnが走っているのだが、他の都市のS-Bahnと違い、第三軌条方式で、地下鉄のような雰囲気である。

今でこそ新しい電車が走っているが、1995年に初めてベルリンに行ったときは、戦前に作られた古い電車が、未だ東ドイツの雰囲気の残る駅を発着していた。ほとんどの電車が古い車両で運転されており、調べてみると大半が戦前の製造。車齢は50年から60年とのことであった。
旧西ドイツでは、S-Bahnの車両は1980年代から90年代に作られた新しい車両で運転されていた。他方、ベルリンの場合は、S-Bahn自体が東側の運用だったということもあるのだが、車両の更新が遅れており、1990年代でも戦前型の車両がつりかけモーターの音を響かせて走っていたのである。そして、木製シートの車両も走っており、大都会ベルリンも、まだまだ東西分断が色濃く残っていた時代でもあった。

さすがに2002年に訪問した時には、古いS-Bahnは一部を残して姿を消し、新しい車両が主体になっていた。結局私自身が最後に乗ったのも、この2002年の訪問時であったと記憶している。

現代のベルリンのS-Bahnは、すでに新型車両に置き換えられてしまっているのだが、1編成だけパノラマS-Bahnと呼ばれる列車用に改造された編成が生き残っているらしい。なかなかベルリンに行く機会には恵まれないが、東西分断の痕跡はずいぶんと薄れつつあるようだ。

古い電車の話のそのまた続き

そして名鉄のモ510の話を書いたところで、ふともっと古い車両が関西で生き残っていることを思い出した。2009年だからもう10年前になるが、私の旧知の友人が病のためにこの世を去った。闘病中に「回復したら阪堺電車のモ161を借り切って宴会をしよう」という話をしていたのだが、叶わぬまま旅立ってしまった。

翌2010年、その彼の追悼のために有志が集まり、阪堺電車でモ161を借り切ったのであった。この時に乗ったのがこの車両。モ172、昭和5年製造(阪堺線入線は6年)なので、この時ですでに車齢80歳。モ510もびっくりである。2010年当時は結構な数がまだ走っていたのだが、その後廃車が進行し、現在は4両が残るのみになっている。私が乗ったモ172も廃車になり、現在は大阪市内の保育園で余生を送っているそうだ。

現役で残っている車両のうち、一番古い車両はモ162で、昭和3年(1928年)製造の御年91歳。動態保存されている車両を除けば日本で最も古い電車だそうで、初詣輸送などの時には、残った4両がすべて動員されることもあるらしい。
阪堺電車がいつまでモ161を運用してくれるかわからないが、やはり100歳まで頑張って欲しいと思うのは私だけではあるまい。

大正生まれの丸窓電車

阪急の車齢50歳よりもそういえばもっと長年走っていた電車があることを思い出した。飯田線と同じくらいの思い出のある電車でもあった、

私の祖父は岐阜の出身で、戦後祖母と結婚するにあたって愛知県にやってきたので、おそらく祖父の人生の2/3くらいは愛知県で過ごしていたはずである。
その祖父は、墓参りや親戚の家に行く用事でよく岐阜に行っており、私も何度となく岐阜に連れて行ってもらった。祖父の実家は、名鉄谷汲線の黒野駅に近かったようで、当時は国鉄だった東海道本線に名古屋まで乗り、なぜか名鉄に乗り換えて新岐阜、そしてそこから岐阜市内線~谷汲線というルートが多かったことを覚えている。当時の国鉄岐阜駅に降りた記憶はなく、大学生になって岐阜に通うようになり、毎日JR岐阜駅に降り立つようになっている。

正直東海道本線は153系/165系か113系で、名鉄もパノラマカー7000系か5500系あたりが多かった記憶があるが、何に乗ったかは覚えていない。逆にはっきり覚えているのは谷汲線直通運用に入っていたモ510/520であった。ちょうどスカーレット1色への塗り替え過渡期だったので、赤白ツートンの車両もまだ走っていた。転換クロスシートが並び、急行運用に入っていたのだが、まさか大正時代に製造された車両だとは思ってもおらず、丸みを帯びた車体と塗装が子供心に記憶に残っていたので間違いないと思う。祖父に乗せられた記憶があるのはモ520の方で、確か522だったか523だったと思う。いずれもすでに現存しない。

人生とはよく分からないもので、私自身はそれから10年以上を経て、青春期を岐阜で過ごすことになった。その時はすでにモ510/520は、基本的には引退していたのだが、予備車として残ったモ510の3両が21世紀に入る頃まで走っていたので、時折岐阜市内線を走っているところを目撃した。当時は鉄道からはほぼ足を洗っていて、飛行機にしか興味を示していなかったので、そういう意味では本当にもったいないことをしたと思ってしまう。

その後、谷汲線も廃止になり、2005年に岐阜市内線を含めた600V区間が全線廃止になり、モ510は引退した。ただ、最後まで残った3両は、静態保存ながら岐阜県内に残っており、いつか訪れてみたいと思っている。
1926年に製造された電車が引退したのが2005年、つまり79年間も岐阜で活躍したのであった。飯田線の旧型国電も、阪急3000系も真っ青な、「長生き」な事例であった。

そして、写真の通り、モ510も我が家にやってくるオチがつくのであった。

阪急伊丹線の旧型電車

と書いたら怒られそうだが、よく利用する阪急伊丹線にも、かつての飯田線顔負けの旧型車両、3000系が走っている。つい先日まで、神戸線の特急列車で走っていたかと思っていたのだが、いつの間にか廃車が進行し、気が付いたら伊丹線に残る4両編成2本だけになってしまった。そして、先日もう1本が廃車になったらしく、ついに阪急線内では4両を残すのみ、だそうだ。

現在残っている編成は、1964年製造が2両と1965年製造が2両。共に製造から50年以上が経過した老朽車である。先日の記事の飯田線の旧型国電が昭和10年代に製造されて昭和58年に引退しているので、50年は使用されていないのだが、まさか関西を代表する私鉄で、車齢50年越えが走っている、というのはちょっとびっくり、であった。

ちなみに関西の私鉄は車両を大事に使用するらしく、南海や京阪などでも古い電車が元気に走っているらしい。飯田線の旧型国電も当時「40年越え」が話題になったが、まさか50年も線路上を現役で走るなんて、電車としては本望なのかもしれない。

飯田線の旧型国電

と書いて、何のことかわかる人は同世代の方かそれ以上かもしれない。
愛知県の豊橋から長野県の辰野までを結んでいるローカル線が飯田線なのだが、最近は「全線乗り通すと6時間」というトピックが話題になるものの、車両はすでにステンレス車体の今時の電車になってしまっており、もちろんエアコンもついているので、夏場に乗っても苦痛はない。6時間の移動を風光明媚な伊那の山々や天竜川に沿って走って行くので、6時間もあっという間というコメントをよく聞く。

愛知県で生まれ育った私にとって、飯田線は時に祖父が連れて行ってくれる「ちょっとしたお出かけ先」だった。母方の祖父は、孫が喜ぶなら、と思ったのか、よく電車に乗って行くお出かけに連れて行ってくれた。その行先は様々で、途中から私に時刻表を渡し、行きたいところへの時刻を自分で調べるように、と仕向けてくれた。その結果が現在の私だが、その後鉄道から飛行機へ、国内から海外へとシフトしていくのだが、当時はそんなことは思ってもみなかった。

さて、祖父と飯田線には何度か乗りに行ったのだが、はっきり覚えているのは、なぜか夕方から出かけた1回である。小学校に入る前の年だったと思う。当時、東海道本線を走る快速列車は、153系や165系で編成されており、豊橋から先飯田線に入って、飯田線内は急行「伊那」になる編成が連結されていた。確か豊橋までの編成が8両、飯田線に行く編成が4両の合計12両だったと記憶している。この頃は153系の非冷房車も残っており、快速の編成には非冷房車が連結されていることも多かった。「伊那」の編成は基本的に165系の冷房車だった。

その急行「伊那」の編成に乗り、豊橋からそのまま飯田線を北上する、というコースだった。そして、湯谷駅で降りて、そこでしばらく待った後、普通列車で南下して豊橋に戻る、というものだった。急行は165系で、その後何年も乗ることができたので、あまり記憶にないのだが、帰りに乗った普通列車は今も覚えている。
いわゆる旧型国電と呼ばれる車両で、クハユニ56という形式を覚えている。車内のシート回りはニス塗の木製、モケットは青だった。今ならモーターの付いた車両に乗って釣りかけ音を楽しむ、なんてことをしただろうけれど、当時は祖父に連れられており、合造車が珍しくてそちらに乗せてもらったようだ。

確かこのお出かけの少し後に、関西流電のクモハ52が引退した、というニュースがあったので、1978年だったと思う。祖父がその時撮影した写真にクモハ52の写真が1枚入っていた。

その後何度か飯田線には連れて行ってもらったのだが、その時の写真の1枚が手元に残っており、東栄駅で行き違いをした時に、向かいのホームの旧型国電に祖父がシャッターを切ったと思しきものが残っていた。1979年4月1日とあり、スキャンして拡大すると、手前の車両は背もたれの枠が木製、奥の車両はクハ68408と読める。いろいろ調べてみると、クモハ54117-クハ68408-(2両)の4両編成だったことが推測できる。クハ68と連結している車両は2ドアっぽいので、クモハ51かクモハ53あたりだろうか。

当時の国鉄は相当の財政難だったようで、車齢が高くなった車両の更新ができず、幹線に新型車両を入れてローカル線に旧型車両を放出する、ということをやっていたらしい。現在の飯田線も、本線で使い古された車両が入ってくるのは同じだが、さすがに車齢40年を超えた車両は走っていない。

昭和40年代に全国で使い古された旧型車両が飯田線に入線することになるのだが、その時点で、ドアの増設改造やら先頭車化改造やらされていて、その改造が各地の鉄道管理局に任されていたので、形態も様々だったらしい。戦前に作られた車両も多く、戦災や戦後の混乱期を乗り越えて、飯田線で余生を送っていた訳で、すでに車齢が40年を超えていたのだから、相当の老朽車だった訳だ。写真を通して様々な形態を見るにつけ、生まれる時代を間違えたな、と思うこともある。

飯田線の旧型国電は、それから5年経った1983年に引退し、その後継として導入された119系も、2012年に引退したと聞いた。祖父も一昨年97歳で鬼籍に入り、飯田線の思い出も遠い彼方に去って行った。

しばらくしてから、鉄道模型として旧型国電シリーズが発売されていることを知った。当初はクモハ53などを購入し、かなり経ってから先日オークションでクモハ52の編成を購入した。こうした車両を眺めて、幼少期に思い出に浸るようになってきた時点で、私も十分をやぢになった、ということだろうか。