27年目の上海

初めて中国に行ったのが1992年なので、27年前の話になる。当時、大学生協のツアーで神戸港から燕京号と言うフェリーで48時間かけて天津に向かい、その後夜行列車で瀋陽、空路で北京、その後南京を経て最後に上海に行くという14日間の行程であった。学生だったからそんなツアーに参加できたのだが、その後私自身はほとんど上海に行く機会がなく、2009年に一瞬上海に滞在したっきり、今年久しぶりに行ってみたら、ほぼ別の土地になっていた。

さて、その上海、27年前からあまり変わっていないところがある。いわゆる外灘と呼ばれるエリアと、当時の繁華街だった南京東路周辺である。尤も、外灘はもっと昔からその姿をほとんど変えていないし、歴史的外観を保持している地域なので、そういう意味ではあまり変化していないのは南京東路くらいかもしれない。

その南京東路も、1992年当時は車が走っていたのだが、かなり前に歩行者天国になっていたようだ。私自身の記憶にあった建物がそのまま残っていたので、おそらく通りそのものはあまり変化していないことが窺えた。
一方で、入っていた店はすべて変わってしまっており、当時は絶対に中国になかったアップルストアだのユニクロだのが入っている。確か私はこのあたりで二眼レフの「海鷗」と、シャツを1枚買ったのだが、今はその痕跡を探すことすら難しくなっている。

27年目の上海で、私自身の初中国訪問の痕跡を探すことができたが、当時同じツアーに参加した添乗員の方は20年近く前に亡くなられているし、ツアー参加者とももう連絡を取る術もなくなっている。27年と言うのはとんでもなく長い歳月なのだ、と言うことを実感する。
他方で、上海に駐在している日本人の友人とは、そんなに頻繁に会う訳ではないのだが、すでに20年以上の付き合いがある。今年は彼に2度会う機会があった。そういう意味で、長い歳月を経てまだお付き合いのある友人は大切にしないといけないと感じた上海でのひと時であった。

中国の成長

先日、仕事で中国に行く機会があった。パスポートを見てみたら、最後に行ったのは3年前の北京だったようだが、いずれにせよ3年間は中国への入国履歴はなかったようだ。尤も、私自身が子供が生まれてから、海外にあまり行っていなかったので、中国どころかこの3年間で出入国があったのは台湾、マレーシア、アメリカの3か国でのべ4回しかない。


仕事で行くとなれば、自動的に上海になるのだが、上海浦東国際空港に到着し、入国審査を済ませて、職場の上海事務所に迎えに来てもらったのだが、まず配車サービスが恐ろしく普及していることに驚いた。タクシーではなく配車サービス、しかも大半が高級車を使っていることが多い。迎えに来たのはボルボだった。

そして、上海事務所の人と夕食を取って、支払いとなると、今度は電子決済であった。噂には聞いていたが、携帯の画面にQRコードを表示させ、店がそれをスキャンすれば支払い完了。中国の銀行口座がないとアカウントが開設できないそうだが、一方でクレジットカードの決済は出来るところが限られるので、訪問者には不便である。システムとしてはデビットカードなので、口座にお金がなければ決済されない、と言うことになるようだ。

私自身の上海訪問は10年ぶりくらいだったのだが、以前行った時と比べて、明らかに治安が良くなっていることを感じた。リュックサックを使っている人が結構多いのだ。以前の中国であれば、スリ対策などでリュックサックではなくショルダーバッグをたすき掛けにしろ、と言われたものだが、今はそんな状況らしい。

中国政府はとにかくあちこちに監視カメラとしての防犯カメラを取り付けたらしい。これが中国において犯罪を止めるきっかけになったとのこと。そして、電子決済はごまかしがきかない。以前であれば、ぼったくりをすることができたのだが、電子決済では証拠が残るので、そうそうぼったくりもできなくなったらしく、悪徳業者は減ったと聞く。そして配車サービスの拡大で、タクシーの利用者が減り、タクシーの運転手の質が向上した、と言う。

ただ、そこはやはり中国。何かにつけてミスやトラブルは多発する。電子決済については、あまりに普及しすぎて現金を受け取らない店が増え、政府が現金は受け取るように、と法律を変えてしまった。「まずやってみて、そこから法律を変えればいい」と言うのが中国流のようだ。 私の友人曰く、「中国人を止めるにはカメラ、動かすにはお金」があれば良いらしい。

もちろん中国のやり方が100%正しい訳でもないし、実際これですべてがうまく行く訳ではないのだが、思った以上に中国が発展していて驚いた。私自身、3年前よりももっと進化していたのが驚愕であった。
ただ、ネット規制は以前よりもさらに厳しくなったようで、こちらは相変わらずであった。もう少しそこは緩めても良いのではないか、とは思うのだが。

香港で海鮮を食べる

私の海外旅行先で最も回数が多いのは、間違いなく香港である。さすがに昨年は行かなかったが、ほぼ毎年香港に飛んでいるし、現地にも複数の友人が居て、私自身の居心地も良いとくれば、行かない方が稀なケースになってくる。しかも最近はLCCの就航で航空券価格は下がっており、マイレージでも空席が出やすいことに加え、異国情緒も十分にあるので、手ごろに行くには本当に良い目的地になる。

さて、香港に行ったところで、観光するところは皆無に近い。では何が楽しみに香港に行くか、と言われれば、食事である。ホテルも朝食なしで予約をして、朝から現地のローカルフードを楽しむのだが、その中で私自身が「お金をかけて食べる」場合にセレクトするのが海鮮であろう。

レストランはいくつかあって、ロブスターのバターチーズソース炒めのような、中華料理ではなさそうなものを売りにしているところもある。これはこれで好きなのだが、中華料理らしい海鮮となると、海辺のとれたてを調理してくれるところが良い、ということになる。
具体的には鯉魚門や西貢などが有名だが、もちろん街中にも新鮮な海鮮を出してくれるレストランは沢山ある。

香港では、蝦は生きているものを調理していないとダメだそうで、観光客相手のレストランなどでは、水揚げから時間がかかって、すでに死んでいる蝦を出しているところもあるとのこと。鯉魚門や西貢のレストランでは、店の前の生け簀から食材を選んで調理してもらうので、鮮度については折り紙付き、ということにもなる。

いろいろ食べて、1人300~400香港ドルくらい。日本円で5000~6000円くらいで、絶品の海鮮中華料理が楽しめる。日本で食べたら1人1万円コースになってしまうので、それを考えれば、香港で海鮮中華を食べるのは止められないのであった。

ハワイで日本語は通じるか

おそらく日本人の渡航先として人気の高い場所を聞けば、トップ3に入るであろうハワイ。れっきとしたアメリカ合衆国の50番目の州なのだが、よくハワイは日本語が通じるから海外旅行先としてイマイチだ、という話を聞いた。

そういう先入観があったので、ハワイに行ったのはつい2年ほど前のことになるのだが、はっきり言って日本語よりも英語をしゃべっていた方が長かった。かんたんに言えば、「そこまで日本語は通じない」というのが正しい。

カラカウア通りの観光客相手の店や、おみやげ物を売っている店なら、日本語は通じるかもしれないが、正直レストランは英語オンリーだったし、他の所でも、私自身が英語を使うせいか、相手は英語を返して来た。もちろん、日本語の表示はあちこちで見かけたが、むしろ日本語の表示と、観光客が発する日本語以外の日本語はあまり見なかったし聞かなかった。
結果、私はハワイでは、日本語が通じるのは限定的である、と判断した。英語で話す方が圧倒的に意思疎通ができる、ということだ。

一方で、日本語で話しかけてくる人たちも居る。いわゆるリゾート会員権を売りたい方々である。某大手ホテルチェーンのものが有名だが、説明会に参加すれば金券がもらえる、というものが多い。だいたい50ドル相当になるだろうか。滞在中の2-3時間のアルバイト、と考えれば割が良いのだが、そういうのが煩わしい、という方には、日本語で話しかけてくる人間には、何かそういう下心がある、と思わなければいけないだろう。

ベルリンの政治犯刑務所博物館

現在のドイツは、ドイツ連邦共和国という民主主義の国になっており、正直旅人として訪れるには非常に優しい国の一つであると思う。あらゆることがシステム化されている部分を見ると、やはりドイツの国民性ということを感じる。

ドイツはご存知の通り、1990年までは東西に分断された国家であり、ドイツ連邦共和国は「西ドイツ」、ドイツ民主共和国は「東ドイツ」と呼ばれていた。1990年に消滅したのは東ドイツで、ドイツ「民主」共和国とは名ばかりの、恐怖政治の共産主義独裁国家であった。

当時の東ドイツでは、市民による市民の監視が行われており、秘密警察シュタージという組織が存在していた。市民は別の市民をシュタージに密告し、その取り調べを行う、ということが日常茶飯事だったようだ。時には家族でさえ密告の対象だった、という。現代のドイツのシステム化を良い事例とすれば、悪い方向にシステム化された事例が、ナチスであり、東ドイツであると私は思っている。

シュタージは、当時密告があると、その当事者を取り調べている。取り調べは専用の施設が用意されており、そこで精神的に追い詰め、告白させるという手法が取られていたようだ。その様子は、映画「善き人のためのソナタ」に詳しく描かれている。

その映画のロケが行われたのが、ホーエンシェーンハウゼンの刑務所跡である。「跡」と言っても、博物館になっており、当時のままの建物と内装が残されている。内部の見学は見学ツアーのみ、基本的に30分のムービーと90分の内部見学、となっているらしい。

私が行ったのは今から12年前の2007年。内部は普通の建物なのだが、やはり何か違った空気感があり、ベルリンの市内にあるとは言え、不思議な感じがした。ここで数多くの、密告を受けた、罪のない人達が裁かれたかと思うとぞっとする。共産主義の遺構を見て回るのが好きな私だが、ここだけはこの一度の訪問以降行っていない。行きたくない、とでも言うべきか。

ロシアのイメージ

私が行ったことがある国で、「おすすめの国」を聞かれることがある。まあ、皆さんの期待は「アメリカ」とか「オーストラリア」とかなのだろうが、私自身の回答は「ロシア」や「イラン」なので、正直びっくりされることが多い。

もちろん海外にあまり行ったことがない方向けであれば、香港とかハワイとかニューヨークとかロンドンとか答えるのだが、それなりに行ったことがある人向けだと、ロシア、ドイツ、イランあたりを推している。
ドイツとイランは別の機会に話を書くとして、今回はロシアについての話を書いてみたい。

おそらく一般にロシアのイメージ=暗い、寒い、怖いではなかろうか。この中で、おそらく「寒い」は事実なので置いておくとして、「暗い」と「怖い」は、ソビエト時代の名残なのかな、とも思う。

何も意識せずにモスクワ行きの飛行機に日本から乗り、モスクワの空港に着いてみると、おそらくその空港の明るさに驚くかもしれない。ソ連崩壊から数年後のモスクワの空港は、薄暗く、汚く、とても一国の首都の空港とは思えなかったのだが、10年ほど前に再訪すると、新しい建物に建て替えられており、明るくきれいなターミナルビルになっていた。
モスクワの地下鉄もソ連崩壊直後に行ったときは、切符の買い方すらよく分からず、ロシア語表記のみで全然分からなかったのだが、10年ほど前の再訪では、普通に切符を買うことができ、ICチップの入った乗車券で改札をICで通るようになっていた。やはりこちらもソ連崩壊直後は薄暗かったが、10年前には暗さを感じなかった。
モスクワの街を歩いても、やはりソ連崩壊直後と10年前ではずいぶんと雰囲気が違っており、現代のモスクワにおいて、私は暗さを全く感じなかった。サンクトペテルブルグに至っては、他のヨーロッパの街と雰囲気は変わらないほどだ。

もう一つ、「怖い」だが、確かに日本の常識では計り知れないことが発生するのは事実かもしれない。ただ、強面の大統領が発する強い言葉と、時折ニュースになる軍事的な話は、ロシアを普通に旅行者として旅をする限りは無縁であろう。モスクワの街を歩いていて、いきなり逮捕される、拘束される、ということはまずない。ソ連時代であっても、軍事基地で撮影しているとかでなければ、逮捕、拘束にはならなかったので、そのあたりはスターリン時代のソ連のイメージではなかろうか。
ロシアでは日本では想像できないトラブルが発生することはある。そもそもの文化も違えば、習慣も違うのだから仕方がないのだが、トラブルが発生したと言って、自分の身に危険が及ぶケースはほとんどない。少し嫌な思いはするかもしれないが、そのうち慣れてしまうと、「ロシアだから仕方がない」となってくる。
また、テレビに映る大統領の顔を見て、ロシア人は笑わない、怖い、というイメージがついているのだが、これも文化の違いであろう。ロシア人は微笑みを誰にでも向けるのは、頭の悪い人間のすることだ、と思っている。つまり、日本の感覚でニコニコしていたら、「こいつはアホじゃないのか」と思われてしまうのだ。
笑わないからと言って、ロシア人が怖い訳ではない。むしろトラブルが発生した時に、ロシア人たちは親身になって助けてくれることが多い。困っていて話しかけられるケースも多く、正直大統領の強面の印象はそこで薄れてしまう。
唯一困ること、と言えば、日本語でもなく英語でもなくロシア語で話しかけられること。まあ、こればかりはヨーロッパや一部の東南アジア以外では稀で、だいたい現地語であることが多い。

世界一の国土面積の割に、人口は日本より少し多いくらい。人口密度などを考えれば、私たちのような島国で生活している人々との感覚は相違してしまうのは仕方がないのだが、少なくともアンチの方々が思っているほど、ロシアは悪い国ではない。その証拠に、私が「ロシア良いよ」と言って実際に行った方は、ほぼ100%が「良かった、また行きたい」と言って帰ってきている。アンチの方にこそ、ロシアに1週間くらい滞在してもらいたいものだと思う。

はじめてのかいがいりょこう

タイトルを平仮名にしたのは、息子にとっての初めての海外旅行だから。
昨年夏に飛行機に乗せることに成功し、息子を連れてどこかに行く、ということに抵抗がなくなったからか、嫁様から「アジア域内の海外で美味しいものを食べに行きたい」と要望があった。私の頭の中に浮かんだのは香港だったが、嫁様に「飛行時間が長い」と却下された。確かに冬場の西行きフライトは偏西風の影響で、飛行時間が若干長くなる。大阪~香港が過去の履歴を見ると4時間程度かかっており、那覇までの2時間ちょっとと比較すると倍かかることになる。
それならば、ということで昨年末に台湾に行くことにした。昨年秋からフライトスケジュールが日本人向けでなくなってしまったキャセイパシフィック航空の大阪~台北~香港便の大阪~台北区間だけを使うことにし、2時間だからエコノミーでいいや、ということでエコノミークラスの航空券を格安で購入した。

さて、台北まで3時間ほどで到着し、子連れということであらゆるところで優先レーンを通してもらうことができた。これ、実は日本でもやっているのだが、あまり知られていないようだ。通関まで30分ほどで済み、その後空港から台北市内のホテルへは送迎車を利用した。値段は張るが子連れには便利で、到着から1時間半後にはホテルにチェックインしていたので、非常にスムーズだったと言える。

台北市内では観光はほとんどせず、子供を連れてあちこちうろうろしつつ、買い物をしつつ、美味しい食事を楽しみつつ過ごした。1歳だから何も分からない、覚えていない、ということは確かだが、そんな息子でも、あちこちキョロキョロして興味を示し、普段と違う空気感を実感していたようで、結構疲れていたらしい。ホテルに帰ってくるとほっとした表情を見せ、お風呂に入れるとすぐに寝てしまい、その後いつもなら数時間おきに目が覚めるのだが、ほとんど起きることなく眠っているようだった。

こうした幼少期の体験は、ほとんど覚えていないとは言われるのだが、一方で少なからずその後の教育にある程度の影響が出てくると思っているので、無駄にはならないと思っているし、飛行機に乗る距離も、少しずつ伸ばして行こうと考えている。

ベルリンの旧東ドイツ時代のアパートホテル

私自身ドイツは好きな国で、1991年に初めて訪問してから、すでに10回は行っている。正直、ドイツについては飛行機趣味よりも旅行趣味がメインになり、旧共産圏の遺構が関係すると、そこに必ずと言っていいほど行くことになる。
2011年の訪問で、タイトルのホテルに泊まることができた。

旧東ベルリン側に、アパートを改造したホテルがある、と聞いたのは、2008年頃だっただろうか。部屋が広いが、一方で共産圏時代の殺風景な部屋が特徴的、と言われて、泊まってみたくなった。旧東ドイツの生活の一片については、映画「グッバイ!レーニン」で描かれているが、そこに出てくるアパートと同じような部屋に宿泊できる、ということになる訳だ。

ただ、私の場合はタイミングの悪いことに、新婚旅行でベルリンに行く、という禁忌をしてしまった。嫁は共産主義の遺構にはあまり興味はなく、ホテルは1泊だけだったのだが、かなり評判が悪かった。尤も、印象は強かったらしく、後日ベルリンの東ドイツ風のホテル、ということでニュースが出てきたときに、「あの時のホテルってこれだっけ?」と聞かれた(違うホテルだったが)。

宿泊したホテルは、その後改装されてしまい、現在は普通のホテルの内装になってしまったらしい。ベルリンの壁が崩壊して今年(2019年)で30年、ドイツが統一して29年である。そういう意味では、2011年にこんなスタイルのホテルに宿泊できた、ということが奇跡的だったのかもしれない。

ベルリンのボロボロのS-Bahn

古い電車ネタからそのまま継続するネタになるのだが、ドイツの首都ベルリンにも、古い電車が走っていた。ドイツの主要都市には、S-Bahn(Schnell Bahnの略)と呼ばれる通勤電車が走っており、空港アクセス鉄道を兼ねていたり、市内の移動手段であったりする。ベルリンにもS-Bahnが走っているのだが、他の都市のS-Bahnと違い、第三軌条方式で、地下鉄のような雰囲気である。

今でこそ新しい電車が走っているが、1995年に初めてベルリンに行ったときは、戦前に作られた古い電車が、未だ東ドイツの雰囲気の残る駅を発着していた。ほとんどの電車が古い車両で運転されており、調べてみると大半が戦前の製造。車齢は50年から60年とのことであった。
旧西ドイツでは、S-Bahnの車両は1980年代から90年代に作られた新しい車両で運転されていた。他方、ベルリンの場合は、S-Bahn自体が東側の運用だったということもあるのだが、車両の更新が遅れており、1990年代でも戦前型の車両がつりかけモーターの音を響かせて走っていたのである。そして、木製シートの車両も走っており、大都会ベルリンも、まだまだ東西分断が色濃く残っていた時代でもあった。

さすがに2002年に訪問した時には、古いS-Bahnは一部を残して姿を消し、新しい車両が主体になっていた。結局私自身が最後に乗ったのも、この2002年の訪問時であったと記憶している。

現代のベルリンのS-Bahnは、すでに新型車両に置き換えられてしまっているのだが、1編成だけパノラマS-Bahnと呼ばれる列車用に改造された編成が生き残っているらしい。なかなかベルリンに行く機会には恵まれないが、東西分断の痕跡はずいぶんと薄れつつあるようだ。

テヘランの交通渋滞

一般にイランのイメージを聞いてみると、大半の人は砂漠の国、という印象を持つらしい。産油国で中東に位置しているので仕方がないと言えば仕方がないのだが、一般的に日本人の中東のイメージで考えれば、その想像はあながち間違っていない。ただ、それはあくまで想像であって、現実は異なるケースが多々ある。
イランの首都テヘランは、標高1200mの高地に位置していることは、意外に知られていない。ケッペンの気候区分ではステップ気候に属するので、乾燥帯ではあるが砂漠ではない。したがってテヘランは雨も降るし、冬はとんでもなく寒い、ということになる。実際に行ってみると、砂漠の印象はまったくなく、砂漠気候の国の街とは雰囲気が異なっている。


さて、テヘランに行ったことがある人が思い浮かべる光景、と言えば、やはり交通渋滞ではないだろうか。テヘラン市内には地下鉄が走っているとは言え、その路線網は十分とはいいがたく、実際に乗ってみると結構混雑していることが多い。さらに道路も整備されているとは言え十分ではなく、運転マナーも2車線の道を3車線、4車線として使っていたりするので、当然だが朝晩を中心に大渋滞することになる。

そして、車の台数が多い割に、低公害車が少ないせいか、平日は排ガスによる大気汚染も結構酷いことがあげられる。貼り付けた写真はまさにこれを集約した1枚なのだが、ここまで車が多いことは失礼ながらまったく想像しておらず、イランに到着して最初のカルチャーショックであったと言っても過言ではない。
一方で、イランは私の訪問してよかった国のトップ5に余裕で入るほど、行って良かった国でもある。今はなかなかイランに行くことは難しいが、いつか息子を連れて行ってみたいと思っている。きっとイランの友人たちは歓迎してくれるに違いない。