再び異動について

以前こちらで「梯子をはずされた異動の話」を書きました。実際に回して回らなければその時考えよう、とその時は暢気に書いていたのですが、蓋を開けてみれば実際に回るはずもなく(物理的に無理なものは無理)、3月には二度目の体調不良で長期休業することになってしまいました。そしてその業務を外れることになり、先月から別の業務を担当することになったのでした。

前の業務では、いろいろな注意を受けることが多かったのですが、正直その注意をしている人たちは、私の配慮が足りないからそういう注意をしなければならない、と言っていました。しかし、私もその人たちに対する配慮をずっとし続けていた訳で、その配慮は全然わかってもらえなかった、ということになります。
逆に言えば、注意をしている人たちは、常に自分本位でしか物事を考えていない訳で、逆に私がその人たちの作業にかからないように行動していることや、時間のかかる機器のメンテナンスをしてもらっていることよりも、自分たちが作業できなくなる、あるいは機器のメンテナンスによって使えなくなる時間ができることが不満だったようです。
この中の一人は私に言いました。「注意をされることは『気付き』だ」と。その時は私も冷静でなく、精神的にももういっぱいいっぱいになってきていたので言えませんでしたが、少し休養して考えてみると、逆にあなたたちは機器のメンテナンスをしたり、できるだけ作業に邪魔にならないようにしていることに対して、全く「気付き」はないのですか?と思う訳です。言い方は悪いですが、「気付き」ができていないのはあなたたち自身で、私の負荷には気がつかない、負荷は関係ない、と言いたいのですか、とすら思う訳です。

私が異動した後、別の同僚が私の業務を引き継ぎました。当然、その同僚に対してそのようなことは言っていないようです。つまり、私に対して、自分たちの不満のはけ口のような態度を取っておいて、担当者が変わればもう言わない、という訳です。
このような態度を取りながら、結局この人たちはお咎めを受けることなくそのまま働いている訳ですが、それで一番迷惑を被ったのは、私の同僚であり、私の会社ということになります。多分、今回私が体調不良で休業しなくて、最後にもっとひどい形-例えば仕事中に倒れて急逝する-とかになった場合、こういう自分本位でしか物事を考えられない人は、おそらく自分の責任は全く感じないでしょうし、そんなことを言ったことすら忘れてしまうという、非常に都合の良い頭の構造になっているんだと思います。だからこそ私の負荷にも気づかず、体調を崩すまで負荷をかけ続ける、ということにつながって行ったんじゃないかと思うわけです。

全く別の仕事を、こういった人々のいない環境ですることになった訳ですが、一体この2年間は何だったんだろう、とすら思うわけです。会社からの自分の評価も下がりますし、ただ単に苦痛の2年間を過ごしたことに対する代償は何もありません。まあ、そういうことを考えた人は、やっぱり根本の考えは変わらないようで、とあるところでの発言を聞いて卒倒しそうになりましたし、先日偶然すれ違ったら舌打ちされました。まあ、そのレベルの人間性ということでしょうし、今後は上が大変だとは思いますが。